2017年4月14日金曜日

クラーナハ展@大阪の感想

昨日(2017年4月12日)、中之島の国立国際美術館で開催されていたクラーナハ展へ行って、強い衝撃を受けたので感想をまとめておきます。 知人に薦められたから行ってみた、という程度の軽いノリだったんですけどね。 一晩経って、そろそろ言語化できそうな感触を得たので(そして、これ以上先延ばしにすると当日得た感覚を忘れそうなので)。 絵画に関してはまったく詳しくないので的外れな内容を含んでいるかもしれませんが、お許しください。

なお、クラーナハに関するWikipedia記事はこちらで、この記事に出てくる絵画についてもそちらで確認してください。 正直なところ、実際に会うかせめて図録等で紙上で確認しないとそのニュアンスは十分に伝わらないと思うので、この記事に画像データを置くのはやめておきます。



1. 蛇の紋章とともに—宮廷画家としてのクラーナハ

クラーナハは16世紀前半のヴィッテンベルクにおいてザクセン選帝公のもとで活躍した人物です。 同時期の画家としてアルブレヒト・デューラー(彼の方が先輩です)が知られていて、本展覧会でもしばしば並べて論じられます。 このパートでは貴族の肖像画ももちろんあるのですが、特に印象に残ったのが礼拝のための宗教画、特に聖母子(ブダペスト国立西洋美術館)です。 聖母の気掛かりそうな表情、特にその目! クラーナハが描く他の女性たちもそうですが、その目が持っている重量が強烈に迫ってくるのです。 まさに筆舌に尽くしがたい。しかも、図録に掲載されているコピーでは本物の持つ気迫はほとんど欠落してしまいます。

この章でもう一点挙げるとすれば、「幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者聖ヨハネ」でしょうか。 ヨハネのまじめ一辺倒な表情(それでいてキリストを信仰していないかのような印象も伴います)、キリストの暗い目(個人的には馬鹿にしているかのように見えました。 私に向かって「お前ではこの世界の真理になんか辿り着けない」と言っているみたい)。 他にはコーブルク城の前で馬に乗るザクセン王子(木版画)、聖カタリナの殉教、などなど。


2. 時代の相貌—肖像画家としてのクラーナハ

この章では絵そのものよりも、16世紀のドイツ文化が垣間見れるあたりが気に入りました。 が、展覧会の感想という趣旨からは外れるので、詳細は省略で… (個人的に、肖像画ってどうやって観賞すればよいのかわからなくて、さっぱり飲み込めないんですよね)


3. グラフィズムの実験—版画家としてのクラーナハ

なんといってもショーンガウアーとクラーナハの「聖アントニウスの誘惑」、そしてデューラーの「龍と戦う大天使ミカエル」でしょう(ここだけ列ができてました)。 いまこの記事は図録を見ながら書いているのですが、顔を近づけて目を凝らして見なければ分解できないほど緻密に書き込まれたこの三枚の絵。 白と黒のコントラストがもっとも整っているのはクラーナハでしょうが、黒に寄せたデューラーも絵の主題からすると相応しい効果を見せていると思います。 また、クラーナハとデューラーは下部に背景の町が書き込まれているのですが、 これは見慣れており整えられた人間界と、聖アントニウス/ミカエルと対峙する異形の怪物/ドラゴンとの対比を狙ったものでしょうか。


4. 時代を越えるアンビヴァレンス—裸体表現の諸相

まず有名なヴィーナス(シュテーデル美術館)が思ってたよりずっと小さいことに驚きましたが、ま、それは内容とは関係ないですね。 アダムとイヴ(ウィーン美術史美術館)のイヴのなにも考えていないようでいて一物抱えたような微妙な笑顔 (いま見直すと、木の葉の配置がわざとらしすぎませんかね)。 泉のニンフ(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)は対岸に人が住んでいると思われる町が確認でき、「人の世」のすぐ裏側に彼女たちの「神の世」が息づいているのかな、などと考えていました。

この辺りで多少お腹いっぱいになりつつあったんですが、甘かったです。

本展覧会の見所のひとつ、ルクレティア三部作。私としてはc1510年版が最も魅力的に思えました。 それより後の2つは生々しすぎて見るに耐えない、というか。 1532年版はある意味「抽象化」されていて、その虚ろな眼差しを見ていると、こっちまで虚無に呑まれそうな錯覚が生まれます。 これは全身裸体画で、透明なヴェールと胸に押し当てられた短剣がそれによく調和しているのが見事という他ないです。

正義の寓意(ユスティティア)は、これ一つだけでクラーナハの名を歴史に留めるのに十分でしょう。 これに関しては私の感想をまだ言語化できていないのですが、図録に掲載されている解説がよくまとまっているので、ここで下手な言葉を並べる必要はなさそうです。


5. 誘惑する絵—「女の力」というテーマ群

率直に言って、この章のテーマ設定に関してはやや疑問を覚えます。 ここにまとめられた絵画群は他の章に振り分けることもできるし、逆に他の章の絵画をいくつかこの章へ引っ越してくることも可能でしょう。 そうは言っても、確かにこの章の絵を「女の力」という観点から捉え直すこともおもしろい試みでした。 それに、個人的に… あ、やっぱりなんでもないです。 けど、そういう訳なので、展示内容に関して批判している訳ではないです。

ただ、ごめんなさい、(クラーナハの)最後の一枚の印象が強烈すぎて、その前の絵たちの感想を書けないです。 彼女の達成感で上気した頬、一方で1000年の未来を見ているかのような浮世離れした目線、貴族然とした質の良い衣装、そして手元の蒼白な生首。 ホロフェルネスの首を持つユディト。これも直接会いに行かなくちゃその印象を十分に得ることはできないでしょう。


6. 宗教改革の「顔」たち—ルターを越えて

ちょっとこの章だけ浮いてますよね。 これまで宗教そのもの、つまり人間そのものに迫るような絵画たちだったのですが、ここでは宗教に対する人間模様、あるいはその人の解釈を提示する、という「二次資料」的な印象があります。それはそれでおもしろいんですが。 当時の聖書が展示してあったのも(個人的趣向が多分に含まれますが)良かったです。

私が気になったのは「子どもたちを祝福するキリスト」で、女性たちの思い詰めたような表情、無邪気な子どもたち、幼児洗礼に関する当時の激論なんて我関せずというような態度で慈愛を振り撒くキリスト。 そう、「我関せず」(というかむしろ関わりたく無さげ)なんですよ、無責任すぎませんかね。 クラーナハ自身はルターたちの宗教論議についてどう思っていたのか、ちょっと気になります。


7. 雑感

分厚いフルカラーの図録が2600円! 事前に聞いてはいましたが、実際に見ると驚きです。 しかも、図録を買うとおまけでポスターをくれるという(売れてないのかな、ポスターなくってもこれは買いでしょう)。 ユスティティアのクリアファイルと合わせて購入してきました。大満足です。 ただ、このクリアファイル、人前で使うと思いっきり引かれそう…

ここしばらくブラームスの「ドイツ・レクイエム」作品45にかなり興味が向いていたんですよね。 この作品はルターによるドイツ語訳の聖書からテキストを採っているので、そういう意味ではかなり今回の展覧会と関係が深いとも言えます。 ドイツ(に限らずヨーロッパの)文化全般へのキリスト教の深い影響がこの機会に実感としてはっきり認識できたので、 キリスト教の観点からクラシック音楽、特に宗教曲を勉強しなおさなければならない、という最近抱いていた思いが一層強められました。 なので(という訳でもないですが)、帰り道にドイツ・レクイエムのスコアと金澤「キリスト教と音楽」を購入してきました。

上の感想からも明らかですが、今回の私の目線は(結果的に)主としてクラーナハが描く女性たちと対峙したときの自分自身の心象、 あるいは宗教を中心とする中世ドイツ文化に向けられていました。 それ故に、それ以外の側面、例えば絵画技法だとか、絵画工房での効率的な生産体制だとか、裸体画として、といった論点はこの感想文には含まれていません。 また、それに関して語れるほどの知識もないです。 これらの点を詳しく論じているような他の方の感想/論評があったらぜひ拝読させていただきたいです。

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