これは2016年10月27日にザ・シンフォニーホールで行われた、外山雄三氏の指揮による大阪交響楽団第205回定期演奏会に関する記録です。
- ショスタコーヴィチ:前奏曲とスケルツォ」作品11 (弦楽合奏版)
- ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番 作品77 (Vn:有希 マヌエラ・ヤンケ)
- ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 作品47
きちんと文章に残すことも必要だと思ったので、半年近く前の記憶ですが、改めてブログ記事として書き下しておきます。
まず筆者の現在の状況をお伝えしておきましょう。今は2017年3月7日から8日にかけての夜で、
筆者はウズベキスタン、ブハラからタシケントへ向かう旧ソ連式寝台列車に乗っています。
ショスタコーヴィチの交響曲第11番(ヤンソンス/フィラデルフィア管)を聞きながら、
ネルソンス氏のショスタコーヴィチに関するインタビュー記事(の抄訳)を読了したところです。
http://andrisnelsonsfan.seesaa.net/s/article/442018979.html
本記事は一義的にはこの環境に触発されたものですが、以前友人たちにこの演奏について語った際にいくら言葉を尽くしても
上述の演奏会で受けた印象を表現し切れないという感覚を抱いたことが根底にあります。
さて、ショスタコーヴィチという旧ソ連の作曲家の経歴について改めて述べる必要はないでしょう。 ここで問題になっている交響曲第5番は彼の代表作であり、作曲家本人と同じくここで説明するまでもないかと存じます。 しかしながら、以下の話の出発点として、一般的に流布するこの曲(以下「タコ5」と呼称します)の「解説」を簡単にまとめておきます。
オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がスターリンの逆鱗に触れたことで、ショスタコーヴィチはリハーサル段階にまで至っていた交響曲第4番を撤回します。 文字通り自身の命を繋ぐためには、当局の意に沿う「わかりやすい」作品を生み出すことが要求され、 実際にベートーヴェン以来の「暗から明へ」の図式に従うこの交響曲によって名誉回復したのです。 特にそのフィナーレは華々しい行進曲によって締められ、聞き応え抜群です。
当然、ショスタコーヴィチのような反骨精神に満ちた作曲家が、こと交響曲の分野で当局に命じられたままのような作品を発表するはずはない、と多くの人は考えています。 彼らの立場では、タコ5のフィナーレは「偽装された歓喜」なのであり、ソビエトの勝利の行進を風刺するものだ、ということになります。 これが現在広がっている基本的な解釈であり、この見解に同意する/しないに関わらず、 タコ5を演奏しようとする指揮者は自らの音楽的スタンスを通じてショスタコーヴィチという作曲家を構成する社会的 (または歴史的)要素への立場を表明することを迫られるのです。
ここで重要なことは、以上のようなタコ5の「解釈」は、楽譜に含まれない「歴史的経緯」に多分に引き摺られたものである、という点です。 それ自体が問題である、と本稿が主張する訳ではありません。しかしながら、例えばモーツァルトの交響曲第39番を演奏する場合、 現在の指揮者は楽譜からのアプローチを彼の音楽づくりの主な手段とし、それがプラハで作曲された等の歴史的要因を中心に据えることは少ないでしょう。 既にショスタコーヴィチの死から40年以上が経過しており、ソビエト連邦も存在しない(筆者はソ連崩壊後に生を受けた世代です)ことを考えると、 楽譜だけを基礎とする「純音楽的」アプローチが生まれてもよい頃合いではないか、と思えます。
そして、実際にそのような演奏が出現したのです。外山氏はかかる作曲経緯を完全に抹消し、楽譜という客観的に残された情報をもとに独自の音楽世界を作り上げました。 しかも、上の議論は絶対音楽を暗に示唆しているように思えますが、外山氏はそうではなく、シベリウスを思わせる表題音楽に寄せた世界を描き出すことに成功しました。
どのような解釈であれ、第1楽章は人に対して非常に「厳しい」音楽です。通常はその厳しさの由来を社会的背景に求めるのですが、外山氏の方法は違います。 彼は凍てつく寒さ、つまり極寒のシベリア、あるいは(筆者の印象はむしろこちらですが)吹雪の南極を想定します。 これらの土地の性格は高緯度地域であるという地理的要因によって定まっているのであり、その寒さは自然法則の帰結です。 特筆すべきは、音楽の基本的な性格が人の意思によらずに決まっていることであり、それが人にとって厳しい環境であるというのは人間側の都合に過ぎないという点です。 従って音楽それ自体は極めて理路整然に進行するのにもかかわらず、人にとって敵対的な調子が一貫して保たれることになるのです。
この方針は後続楽章でもずっと維持され、「人の姿のない」交響曲演奏が実現されます。 注目すべきは第3楽章のダイヤモンドダストの煌めき、そして第4楽章フィナーレの日の出でしょう。 長い、いつまでも続くかのような夜が終わり、太陽の光が差し込むと、これまで鬱々とした情景を演出していたすべての草木、動物が神々しい輝きを帯びます。 ただし、あくまでこれは地軸が公転面に対して23.4度傾いているという人間とは関わりのないレベルで定められている自然現象なのであり、 「勝利」といったニュアンスは微塵も含まれていないのです。 これはまさに21世紀的なショスタコーヴィチ演奏(の一つの成功した例)と言えるでしょう。
筆者は当初この演奏会について、むしろ中プロのヴァイオリン協奏曲第1番を楽しみにしていました。 それが、このような定番曲ながら凡庸とは程遠い演奏に接することとなり、驚愕したのです。 結果として、本演奏会は2016年で最も印象的なもののひとつとなり、こうして半年経った今でも鮮明な記憶が保たれているのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿